2009年9月25日 (金)

・「港が見える丘」♪ カバー曲

かつてヒットした曲を、時を隔てて別の歌手が歌うことをカバーというらしいが、何と言ってもはじめにヒットさせた歌手の歌(以下原曲)が一番だと長らく思っていた。曲と歌手はセットで印象に残ることが大きいからだ。しかしながら、原曲のヒットをリアルタイムで経験していない曲になると、必ずしもそうでないことがある。原曲の印象がないため、歌がうまいとか、声がその曲にあっているとか、純粋に評価できる。

「港が見える丘」と「銀座カンカン娘」はカバーする歌手が多いように思える。

「港が見える丘」は昭和22年、平野愛子が歌ってヒットしたと記録が残っている。戦後直後に随分しゃれた歌が流行ったものだと思う。

私のi-Podには、

水森かおり、遊佐未森、菅原洋一、由紀さおり&安田祥子、ちあきなおみの「港が見える丘」が入っている。どの歌手の歌も味わいがあって捨て難い。

横浜に「港が見える丘公園」があるので、この歌は横浜を舞台に描かれたものと思っていたが。この公園ができたのは、昭和37年。作詞家の東辰三(あずまたつみ)は兵庫県出身で、神戸高商(現神戸大学)卒業ということで、この歌のイメージは神戸という説も有力。まあどちらでもいいのだけど、横浜をうたったヒット曲はたくさんあるが、神戸は数えるほど。少しは譲ってもらって、「港が見える丘」は神戸の歌としたいと思う。

「港が見える丘」=「諏訪山公園」 ← 勝手な決定happy01

ちなみに、東辰三の息子が山上路夫らしい。

あなたと二人で 来た丘は

港が見える丘

色褪せた桜 唯一つ

淋しく 咲いていた

船の汽笛 咽び泣けば

チラリホラリと 花片

あなたと私に 降りかかる

春の午後でした

あなたと別れた あの夜は

港が暗い夜

青白い灯り 唯一つ

桜を照らしてた

船の汽笛 消えて行けば

チラリチラリと 花片

涙の雫で きらめいた

霧の夜でした

あなたを想うて 来る丘は

港がみえる丘

葉桜をソヨロ 訪ずねる

潮風 浜の風

船の汽笛 遠く聞いて

ウツラトロリと 見る夢

あなたの口許 あの笑顔

遠い夢でした

遠い夢でした

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2009年5月15日 (金)

・「泪橋」茶木みやこ ♪1974年

好きな曲というのは、イントロが流れたところですぐその世界に入れるものである。「泪橋」もそうである。

「哲学の道」に代表される琵琶湖疏水の散歩道。

学生の町=京都。

京都=東山。

学生時代を京都で過ごしたわけではないが、私の京都のイメージとぴったり合って、心に残る歌になっている。

京都には「泪橋」という名前の橋はないようだが、人生の分かれ道を「橋」にたとえ、また「友」を将来の生き方探った青春にたとえている。と思う。

「泪橋」は未だに青い私の心に残る歌である。

茶木みやこは、同志社女子大学在学中の1970年から1972年にかけて関西を中心に活躍したフォークデュオ「ピンクピクルス」のメンバー。解散後相棒の小林京子はデスクジョッキーになったのに対して、茶木みやこは今も地道に音楽活動を続けている。1950年生まれだからもうすぐ還暦だ。

京の日暮れは東山

雨に打たれる疎水べり

ゆきつ戻りつしのびつつ

あの日の友はいまいずこ・・・

泪でかすむこの橋は

誰が名づけた泪橋

誰が名づけた泪橋

一人二人とこの橋を

泪で渡って帰らない

共に語ったあの世界

昔話と笑うのか

きっと帰ると手を握り

友と別れた泪橋

友と別れた泪橋

川の流れか時は過ぎ

友の便りもすでに絶え

乾いた心が残るだけ

死んだ友さえ幻か

渡り切れずにまた戻る

むなしさだけが泪橋

むなしさだけが泪橋

一人ぼっちに耐え切れず

思わず友の名を呼べば

泪の川雨の中

皆やさしい友なのに

どこまで続く悲しみは

一人ぼっちの泪橋

一人ぼっちの泪橋

誰が名づけた泪橋

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2009年3月17日 (火)

・「花の手拍子」英亜里 ♪1968年

昭和43年(1968年)。グループサウンズ全盛の頃。一方では、伊東ゆかり、小川知子、奥村チヨ、黛ジュン、中村晃子、いしだあゆみ、青江三奈など、いわゆる歌謡曲の分野では女性歌手の全盛期でもあった。

そのような状況下、英亜里(はなぶさあり)という演歌歌手がデビューしてきた。中学生だった私は、「英」と書いて「はなぶさ」と読むのだと、国語辞典を引いたものだった。凝った名前だったようだ。

歌った曲も、手拍子というぐらいだから明るくて当然なのかもしれないが、演歌にしては妙に明るい感じだと思ったものだ。当時でもちょっと古臭い感じがしたが、妙に耳に残る曲だった。そこが売りどころだったのかもしれない。

英亜里は地味な歌手で(都はるみを美人にした感じだった?)、曲もいろいろ出したようだが、結局ヒット曲といえるのはこの曲だけで、いわゆる一発屋だった。

でも妙に記憶に残る歌手と曲であった。昭和43年のヒット曲を集めたCDにもしぶとく収録されていることをみると多くの人にも印象的だったのかもしれない。

この記事を書くにあたって調べてみると、1968年に設立されたCBSソニー(現:ニー・ミュージックエンタテインメントの日本人契約第1号歌手として、新会社の期待を背負ってデビューしたようだ。随分地味な歌手を目玉にしたものだと思う。

私はつぼみ 真赤な花の

わかっているのもうすぐ咲くの

あなたの愛がふくらんで

小さなはずみ待つばかり

私を咲かせてくれるなら

花のこころにひびくように

こころをこめて手のひらに

花の手拍子打ちましょう

タン タン タン タン タン…

私はつぼみ 待っていました

いつか誰かのために咲く日を

あなたは光あなたは露

つぼみはやっとふくらみました

私を咲かせてくれるなら

花のこころにひびくように

こころをこめて手のひらに

花の手拍子打ちましょう

タン タン タン タン タン…

私を咲かせてくれるなら

花のこころにひびくように

こころをこめて手のひらに

花の手拍子打ちましょう

タン タン タン タン タン…

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2009年2月21日 (土)

・「花はどこへ行った」♪ Where have all the flowers gone?

日本のフォークソングは、1960年代に流行ったアメリカンフォークのコピーから生まれたとも言われているが、私がフォークに接したのは1970年代に入ってからで、模倣から脱してオリジナルが地に着き始めた頃だ。

よって、日本に大きな影響を与えた、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、ブラザーズフォーの活躍も、「花はどこへ行った」もヒットもリアルタイムで体験していない。でも、追体験で接しても、少し上の世代の日本の若者に強いインパクトを与えた曲は、私の心に入り込んでいる。

以下の記事は、今回調べたものである。「花はどこへ行った」への多くの人の想いが積み重なった歌であること改めて認識した。

1.オリジナルはコサックの子守歌

「花はどこへ行った」は1955年(昭和30年)、アメリカフォークの父と呼ばれるピート・シーガーが作詞・作曲して誕生した。ロシアのノーベル賞作家ショーロホフの「静かなドン」の中に出る<コサックの子守歌>の歌詞からヒントを得て短時間で完成させたという。

「静かなドン」は、第一次世界大戦、ロシア革命に翻弄されたドン地方のコサック(平時は農業に勤しみ、有事には武装して戦うことを条件に特権的は土地使用を認められていた半農武装集団)を描いた小説。その冒頭に

・それじゃあがちょうはどこへ行た?

  あしのしげみに逃げて行た

・それじゃあしはどこへ行た?

  むすめが刈ってゆきました

・それじゃ娘はどこへ行た?

  娘は嫁にゆきました

・それじゃコサックはどこへ行た

  戦さにでかけてゆきました

   河出書房 世界文学全集24

   シューロホフ「静かなドンⅠ」横田瑞穂訳

という子守唄が挿入されている。今もドン地方では歌われているとか。

2.誕生

ピート・シーガーは<コザックの子守歌>の2・3・4節を借用している。

1番:花(葦)はどこへ行った⇒娘が摘んで行った

2番:娘はどこへ行った   ⇒若物に嫁いで行った

3番:若者はどこへ行った  ⇒戦さに行った

そして曲をつけた。

この歌に4番、5番の歌詞を付け加えたのが、民族音楽研究家のジョー・ヒッカーソン。

4番:戦場へ行った若者はどこへ行った ⇒死んで墓になった

5番:その墓はどうなった ⇒花に覆われ少女に摘まれた。

少女青年兵隊墓地花の素朴な構成ながらおろかなことを繰り返す人間の悲しさを静かに訴える名曲が完成する。

3.平和の歌としてヒット

こうして完成した「花はどこへ行った」であるがヒットするまで少し時間がかった。

1962年(昭和37年)。キングストン・トリオによってカバーされ大ヒット。

1963年(昭和38年)。ピーター・ポール&マリーのカバーも大ヒット。

3.究極の反戦歌に

1968年(昭和43年)。ベトナム戦争の前線基地であったケサン基地の塹壕で「花はどこへ行った」を歌う海兵隊の姿が報道されたことはアメリカ市民に大きな衝撃を与えたといわれる。もはや戦う意味を失ったアメリカ兵の歌う「花はどこへ行った」によって、平和願う歌からベトナム戦争への反戦歌として意識されるようになった。

ブラザーズフォーやジョーン・バエズのカバーもヒットする。

4.海外でのヒット

ベルリン生まれのドイツ人で、ナチス政権に反発してアメリカへ渡り、市民権を獲得したハリウッド女優マリーネ・ディートリッヒは第二次世界大戦への反戦歌「リリーン・マレーン」のヒット曲を持つが。彼女がドイツ語で歌った「花はどこへ行った」も空前のヒットとなる。母国を失った彼女の悲しみの心情が反映していると言われている。

5.スポーツの世界へ

東ドイツのフィギアスケートの代表として、1984年のサラエボ、1988年のカルガリ五輪で金メダルを獲得したカタリーナ・ビットは、思い出のサラエボがユーゴ紛争の戦火に巻き込まれているのを悲しみ、1994年リレハンメル五輪へ2大会ぶりに出場。「花はどこへ行った」にのって演技した。順位こそ7位だったが、多くの人々の心を打った滑りだった。

6.日本では

1966年。おおたたかし訳詞でザ・リガニーズによるものがヒットした。

おおたたかしの訳はよくできたこの歌の心情を良く捉えていると思うが、ストレートな直訳ではないので、この歌の誕生経緯を理解してから聞くと味わい深い。

7.大きな流れ

コサックの子守歌が多くの人の手を経て、平和を願う歌に変貌をとげ、多くの人の平和への様々な思いをのせて歌い継がれていく。大きな大きな流れにのった大きな深い歌になった。

野に咲く花はどこへゆく

野に咲く花はきよらか

野に咲く花は少女の胸に

そっとやさしくいだかれる

かわいい少女はどこへゆく

かわいい少女はほほえむ

かわいい少女は若者の胸に

恋の心あずけるのさ

その若者はどこへゆく

その若者はいさんで

その若者はたたかいにゆく

力強く別れを告げ

戦い終わりどこへゆく

戦い終わりしずかに

戦い終わり土にねむる

やすらかなるねむりにつく

戦士のねむるその土に

野バラがそっと咲いていた

野バラはいつか少女の胸に

そっとやさしくいだかれる

Where have all the flowers gone?
Long time passing.
Where have all the flowers gone?
Long time ago.
Where have all the flowers gone?
The young girls have picked them ev'ry one.

 Oh, when will you ever learn?
 Oh, when will you ever learn?

Where have all the young girls gone?
Long time passing.
Where have all the young girls gone?
Long time ago.
Where have all the young girls gone?
They've taken husbands, every one.

 Oh, when will you ever learn?
 Oh, when will you ever learn?

Where have all the husbands gone?
Long time passing.
Where have all the
husbands gone?
Long time ago.
Where have all the
husbands gone?
They're all in uniform.

 Oh, when will you ever learn?
 Oh, when will you ever learn?

Where have all the soldiers gone?
Long time passing.
Where have all the soldiers gone?
Long time ago.
Where have all the soldiers gone?
They've gone to graveyards, every one.

 Oh, when will they ever learn?
 Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone?
Long time passing.
Where have all the graveyards gone?
Long time ago.
Where have all the graveyards gone?
They're covered with flowers, every one.

 Oh, when will they ever learn?
 Oh, when will they ever learn?

Where have all the flowers gone?
Long time passing.
Where have all the flowers gone?
Long time ago.
Where have all the flowers gone?
Young girls picked them, every one.

 Oh, when will they ever learn?
 Oh, when will they ever learn?

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2008年11月 6日 (木)

・「遠い世界に」♪五つの赤い風船 1969年

フォークソングの定番。

その昔、若者の旅の宿といえばユースホステル。ユースに泊まると夕食後、宿泊者全員が集うミーティングがあり、オープニングは「戦争を知らない子供たち」か「遠い世界に」だった。皆が知っていて、声を合わせて歌うのにぴったりの曲ということで選曲されたようだ。

まさに青春の歌だけど、「戦争を知らない子供たち」とは違ってヒット曲というイメージはない。おそらく「五つの赤い風船」もテレビには出ないグループだったと思う。リーダーの西岡たかし以外は記憶にない。じわじわ歌い継がれて、気がついたら皆知っていた、という広がりだったのではないだろうか。

この曲を聴くと、ユースのミーティングを思い出す。そしてつい口ずさむ。

♪明日の世界をさがしに行こう 

つい拳を握ってしまう

遠い世界に旅に出ようか

それとも赤い風船に乗って

雲の上を歩いて見ようか

太陽の光でにじを作った

お空の風をもらって帰って

暗い霧を吹き飛ばしたい

ボクらの住んでるこの町にも

明るい太陽顔を見せても

心の中はいつも悲しい

力を合わせて生きる事さえ

今ではみんな忘れてしまった

だけどボク達若者がいる

雲にかくれた小さな星は

これが日本だ私の国だ

若い力を体に感じて

みんなで歩こう長い道だが

一つの道を力のかぎり

明日の世界をさがしに行こう

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2008年9月22日 (月)

・「夜の訪問者」♪小川順子 1975年

1975年。この年の新人歌手といえば岩崎宏美と細川たかしだったが、年も押し詰まってきて「夜の訪問者」の小川順子がじわじわと売上を伸ばしてきた。

小川順子。くりっとした目、真ん丸い顔、団子鼻、ぽっちゃりした体型。そしておおきなえくぼ。見た目は、美人ではないが、好み中の好みだった。小川順子も世にいう一発屋であるが、「夜の訪問者」のほかに「男の世界」、「夕陽」などの作品を出している。あまり売れず何時の間にか消えてしまった。

3年で引退し医者と結婚したらしい。

当時としても斬新な曲ではなかったが、リズミカルな曲と、ボリュームのあるややハスキーな声と軽いこぶしが耳に心地よかった。

雨の匂いが十九のこの胸濡らす

白い扉にあなたを想うの

夜の鏡に愛を問いかけ

一人涙をみつめて泣いた

きっときっと又来てね

素敵な私の夜の訪問者

何も言わずにあなたは窓辺の椅子で

あの晩勝手に新聞読んでた

私は私でくちべにひいて

息をひそめてあなたを待ったわ

きっときっと又来てね

素敵な私の夜の訪問者

夜のしじまに誰かの足音聞いて

胸をかすめるあなたの横顔

泣くだけ泣いて朝まで待って

つかみたいのよ小っちゃな倖せ

きっときっと又来てね

素敵な私の夜の訪問者

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2008年7月 8日 (火)

・「戦争を知らない子供たち」♪ジローズ 1971年

昭和20年8月15日。第二次世界大戦(太平洋戦争)が終わった。戦争にとられていた男性が日常生活に戻ってきた。結果、空前のベビーブームが起こる。そのベビーブーム世代を、堺屋太一は、「団塊の世代」と名づけた。狭義には昭和22年から24年生まれを指すようだが、一般にはもう少し幅広にベビーブーム世代と呼んでいた。

戦後生まれの若者をさらに幅広に見事に表現したコピーがこの「戦争を知らない子供たち」

である。共に戦後の昭和21年生まれの北山修(現:九州大学大学院教授)が作詞し、杉田二郎が作曲した。

戦争が終って 僕等は生まれた

戦争を知らずに 僕等は育った

当時、この歌を初めて聞いた私の両親も、「戦争を知らない子供たち」という表現にいたく感心していた。戦後生まれの若者(戦後から昭和40年位までの生まれをさすのだろうか)のテーマソングのように言われ、集会(時代がかった表現!)のオープニングの定番となった曲である。この歌を聴くと、「僕たちの歌だよ」と思いが湧いてくる。

昭和45年。大阪で開かれた万国博覧会。この時、万博ホールで開かれたフォークコンサートのテーマソングとして作成された曲である。舞台にたったのはすべてアマチュア。「全日本アマチャア・フォーク・シンガーズ」と名前で、「戦争を知らない子供たち」を歌った。そのライブ版がまず発売された。後のチェリシュもこの中にいたらしい。

そのコンサートで、北山修は「僕たちは戦争を知らない子供たちと呼ぶことができます。他国では今戦争を知っている子供たちが一杯います。(ベトナム戦争を指していると思う)。願わくば100年後、200年後、僕たちの子供たち、そのまた子供たちが、戦争を知らない子供であって、世界中で同じタイトルで音楽会が開かれたらと願っています。」というような主旨のメッセージを語っている。

そして、翌46年。1971年。作曲をした杉田二郎が第二次ジローズを結成。「戦争を知らない子供たち」でデビュー。大ヒットとなった。

戦争が終って 僕等は生まれた

戦争を知らずに 僕等は育った

おとなになって 歩きはじめる

平和の歌を くちずさみながら

僕等の名前を 覚えてほしい

戦争を知らない 子供たちさ

若すぎるからと 許されないなら

髪の毛が長いと 許されないなら

今の私に 残っているのは

涙をこらえて 歌うことだけさ

僕等の名前を 覚えてほしい

戦争を知らない 子供たちさ

青空が好きで 花びらが好きで

いつでも笑顔の すてきな人なら

誰でも一緒に 歩いてゆこうよ

きれいな夕陽の 輝くこみちを

僕等の名前を 覚えてほしい

戦争を知らない 子供たちさ

戦争を知らない 子供たちさ

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2008年5月 9日 (金)

・「ミカンが実る頃」♪藍美代子 1973年

このうたのイントロが流れると、体の中が何とも言えない感覚で一杯になる。

1973年、昭和48年、大学生になった年だ。この時より前のことは、昔のこと・子供の頃のころという印象があるが、この時より後のことは、ついこの間のことのように感じる。不思議なものだ。はやり大学生になった開放感が大きかったのだろうか。そのような頃のうただ。

藍美代子。私と同い年。くりっとした目と真ん丸い顔。好きだった。世にいう一発屋であるが、「ミカンが実る頃」のほかに「若草の誓い」、「手のひらの秋」、「あじさいの寺」、「母」、「くもりのち晴れ」やアニメの主題歌のレコードを出している。

1970年 純エリ子の芸名でデビューしたが売れず、1973年「ミカンが実る頃」で再デビューをはたした。レコード会社がワーナーパイオニア、事務所が渡辺プロダクション。ともに1971年に先にデビューした小柳ルミ子と同じ。ディスカバージャパンソングの路線も同じで全くかぶってしまった。声がきれい過ぎて特徴を出せなかったのではないか。本田路津子や芹洋子のような路線をとれば生き残ったかもしれない。

現在は、仙台でスナックを経営しながら、ジャズシンガーとしても活動しているようだ。ホームページには現在の写真がのっている。私と同い年だからいいお年だけど、色っぽくいい女になって映っている。五月みどりに似ている。

青いミカンが実った故郷の丘に

今年もとり入れの 歌がまたきこえる

甘くすっぱい 胸の想いを

ひそかにこめながら小篭につむの

遠くの街のあなたにも 送ってあげましょう

ミカン畑を夕日が赤く染める頃

私は帰るのよ 籠をしょいながら

街ではたらく 好きなあなたと

結ばれるその日を夢にみながら

海辺の道を帰るのよ 明日を願って

海の夕日に そっと祈るの

あなたが帰る日を またあえる日を

ミカン畑のふるさとで 私は待つのよ

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2008年3月 8日 (土)

・「花」♪ - 音痴だと教えた曲 -

私が音痴だとわかったのがこの曲だ。同時に音痴というものがこの世にあるということを教えてくれた曲でもある。

小学三年生の時のこと。新学期にクラス替えがあった後の初めての音楽の授業。音楽の教科書を開くと一番最初のページにこの「花」の楽譜があった。

♪ 春の小川の~ 隅田川~

と、全員で歌い始めた。私も大声で歌い始めた。するとクラス全員が歌うのを止め、一斉に私の方を向いた。先生も伴奏を止めてしまった。一瞬の静寂。その後皆の大声が教室中に響いた。

「オ・ン・チ!」。「変な声!」。「はずれてる!」。「ひどい!」。…

私は何が起こったのか理解できなかった。どうも私の歌が原因で歌が中断したようだ。私が音痴だと知った瞬間である。この「花」という曲を長らく嫌な曲として避けて生きてきた。

時が流れ、ようやくこの曲を味わえるようになってきた。

が、今も不思議なのは、小学一・二年生の同級生は、私が大声で歌う音痴な歌をどう聞いていたのであろうか。三年生の一斉に私の向いた顔も結構一緒だったのに。まさか「裸の王様」状態だったわけでもあるまいし。

春のうららの 隅田川

のぼりくだりの 船人(フナビト)

(カイ)のしずくも 花と散る

眺めを何に たとうべき

見ずやあけぼの 露浴びて

われにもの言う 桜木を

見ずや夕暮れ 手を伸べて

われさし招く 青柳(アオヤギ) 

錦おりなす 長堤(チョウテイ)

暮るれば上る おぼろ月

げに一刻も 千金の

眺めを何に たとうべき

<関連記事>

200751日 「カラオケなんかなくなってしまえ」

http://yamaken38.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_a2e6.html

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2008年2月24日 (日)

・「人生が二度あれば」♪井上陽水 1972年

「人生が二度あれば」なんと大げさなタイトルだろう

「人生が二度あれば」なんとストレートなタイトルだろう

と最初思った。ライブ「もどり道」の陽水の語りを聞いてこの詩へ印象が軽くほのぼのしたものに変わった。

「もどり道」で陽水は次のようなことを語っている。

以下勝手に要約。

「父は高知県の歯医者のいない村で生まれた。父はその村出身の唯一の歯医者になったのだが、福岡で開業したので父の生まれた高知県の村には歯医者がいないままである。

ぼくがこういうやくざな道に落ち込んで、歯医者を継ぐことが出来なくなったので、諦めて余生を自分の生まれたところで過そう帰ったのだが、よほど嬉しかったようで、戻って3日目に心臓発作で倒れて…

この歌を作った時、親父が非常に喜んでくれました。」

陽水は自分でしゃべっているうちに感極まったようで、語りの最後は少々涙声のように聞こえる。冒頭の歌詞、父親の年齢を間違うほどであった。サングラスをかけ、ちょっと斜に構えた感じだった陽水のイメージを多少変えた語りであった。そして「人生が二度あれば」という仰々しいタイトルから受けるこの曲の印象も変った。

炬燵に入って、老父夫婦がゆっくりお茶を飲みながら昔話をする。なんと幸福な人生なのだろう。人生が二度ある必要もない、いい光景が歌われている。

タイトルは「こたつでお茶を」で充分である。

人生が二度あるはずがない。子が思う親への気持ちを表すのが照れくさい。そこであえておおげさなタイトルをつけたのかもしれない。

私の父は認知症の母を抱えての生活のなかで、玄関先の階段から落ち、頭を打ってなくなった。母は認知症のまま、私の姉の家で施設入所の順番を待っている。

※ もどり道の陽水の語りはCDではカットされている。

★【肩の力を抜いて】を開設して今日で1年。258本の記事を書いた。おおよそ3日に2本。感覚的には毎日書いているように思えるが、そんなペースのようだ。ブログを書くことに追われているような気もするが、自身の記録を残すという意味で、日々の生活のスパイスになっている。当初の目的である読書記録からややスポーツ観戦記録の方が多くなってしまっているが。

多くの方に訪問いただき、コメントやTBをいただきました。ありがとうございました。

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