2008年5月 9日 (金)

・「ミカンが実る頃」♪藍美代子 1973年

このうたのイントロが流れると、体の中が何とも言えない感覚で一杯になる。

1973年、昭和48年、大学生になった年だ。この時より前のことは、昔のこと・子供の頃のころという印象があるが、この時より後のことは、ついこの間のことのように感じる。不思議なものだ。はやり大学生になった開放感が大きかったのだろうか。そのような頃のうただ。

藍美代子。私と同い年。くりっとした目と真ん丸い顔。好きだった。世にいう一発屋であるが、「ミカンが実る頃」のほかに「若草の誓い」、「手のひらの秋」、「あじさいの寺」、「母」、「くもりのち晴れ」やアニメの主題歌のレコードを出している。

1970年 純エリ子の芸名でデビューが売れず、1973年「ミカンが実る頃」で再デビューした。レコード会社がワーナーパイオニア、事務所が渡辺プロダクション。ともに1971年に先にデビューした小柳ルミ子と同じ。ディスカバージャパンソングの路線も同じで全くかぶってしまった。声がきれい過ぎて特徴を出せなかったのではないか。本田路津子や芹洋子のような路線をとれば生き残ったかもしれない。

現在は、仙台でスナックを経営しながら、ジャズシンガーとしても活動しているようだ。ホームページには現在の写真がのっている。私と同い年だからいいお年だけど、色っぽくいい女になって映っている。五月みどりに似ている。

青いミカンが実った故郷の丘に

今年もとり入れの 歌がまたきこえる

甘くすっぱい 胸の想いを

ひそかにこめながら小篭につむの

遠くの街のあなたにも 送ってあげましょう

ミカン畑を夕日が赤く染める頃

私は帰るのよ 籠をしょいながら

街ではたらく 好きなあなたと

結ばれるその日を夢にみながら

海辺の道を帰るのよ 明日を願って

海の夕日に そっと祈るの

あなたが帰る日を またあえる日を

ミカン畑のふるさとで 私は待つのよ

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2008年3月 8日 (土)

・「花」♪ - 音痴だと教えた曲 -

私が音痴だとわかったのがこの曲だ。同時に音痴というものがこの世にあるということを教えてくれた曲でもある。

小学三年生の時のこと。新学期にクラス替えがあった後の初めての音楽の授業。音楽の教科書を開くと一番最初のページにこの「花」の楽譜があった。

♪ 春の小川の~ 隅田川~

と、全員で歌い始めた。私も大声で歌い始めた。するとクラス全員が歌うのを止め、一斉に私の方を向いた。先生も伴奏を止めてしまった。一瞬の静寂。その後皆の大声が教室中に響いた。

「オ・ン・チ!」。「変な声!」。「はずれてる!」。「ひどい!」。…

私は何が起こったのか理解できなかった。どうも私の歌が原因で歌が中断したようだ。私が音痴だと知った瞬間である。この「花」という曲を長らく嫌な曲として避けて生きてきた。

時が流れ、ようやくこの曲を味わえるようになってきた。

が、今も不思議なのは、小学一・二年生の同級生は、私が大声で歌う音痴な歌をどう聞いていたのであろうか。三年生の一斉に私の向いた顔も結構一緒だったのに。まさか「裸の王様」状態だったわけでもあるまいし。

春のうららの 隅田川

のぼりくだりの 船人(フナビト)

(カイ)のしずくも 花と散る

眺めを何に たとうべき

見ずやあけぼの 露浴びて

われにもの言う 桜木を

見ずや夕暮れ 手を伸べて

われさし招く 青柳(アオヤギ) 

錦おりなす 長堤(チョウテイ)

暮るれば上る おぼろ月

げに一刻も 千金の

眺めを何に たとうべき

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200751日 「カラオケなんかなくなってしまえ」

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2008年2月24日 (日)

・「人生が二度あれば」♪井上陽水 1972年

「人生が二度あれば」なんと大げさなタイトルだろう

「人生が二度あれば」なんとストレートなタイトルだろう

と最初思った。ライブ「もどり道」の陽水の語りを聞いてこの詩へ印象が軽くほのぼのしたものに変わった。

「もどり道」で陽水は次のようなことを語っている。

以下勝手に要約。

「父は高知県の歯医者のいない村で生まれた。父はその村出身の唯一の歯医者になったのだが、福岡で開業したので父の生まれた高知県の村には歯医者がいないままである。

ぼくがこういうやくざな道に落ち込んで、歯医者を継ぐことが出来なくなったので、諦めて余生を自分の生まれたところで過そう帰ったのだが、よほど嬉しかったようで、戻って3日目に心臓発作で倒れて…

この歌を作った時、親父が非常に喜んでくれました。」

陽水は自分でしゃべっているうちに感極まったようで、語りの最後は少々涙声のように聞こえる。冒頭の歌詞、父親の年齢を間違うほどであった。サングラスをかけ、ちょっと斜に構えた感じだった陽水のイメージを多少変えた語りであった。そして「人生が二度あれば」という仰々しいタイトルから受けるこの曲の印象も変った。

炬燵に入って、老父夫婦がゆっくりお茶を飲みながら昔話をする。なんと幸福な人生なのだろう。人生が二度ある必要もない、いい光景が歌われている。

タイトルは「こたつでお茶を」で充分である。

人生が二度あるはずがない。子が思う親への気持ちを表すのが照れくさい。そこであえておおげさなタイトルをつけたのかもしれない。

私の父は認知症の母を抱えての生活のなかで、玄関先の階段から落ち、頭を打ってなくなった。母は認知症のまま、私の姉の家で施設入所の順番を待っている。

※ もどり道の陽水の語りはCDではカットされている。

★【肩の力を抜いて】を開設して今日で1年。258本の記事を書いた。おおよそ3日に2本。感覚的には毎日書いているように思えるが、そんなペースのようだ。ブログを書くことに追われているような気もするが、自身の記録を残すという意味で、日々の生活のスパイスになっている。当初の目的である読書記録からややスポーツ観戦記録の方が多くなってしまっているが。

多くの方に訪問いただき、コメントやTBをいただきました。ありがとうございました。

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2008年1月24日 (木)

・「人形の家」♪弘田三枝子 1969年

30年も前のこと。就職した時、新人歓迎ハイキング(なんと当時は牧歌的だったのだろう)というのがあった。兵庫県の仁川ピクニックセンター(地元ではピクセンと読んでいた)へ若手で出かけた。芝生に円形に座って自己紹介。といっても職場で数日顔を合わせた人たちばかりなので、趣味とか特技とかを紹介する場になった。

その時2年先輩が青空の下、雑誌か何かを丸めてマイクに見立てて、突然「人形の家」を歌いだした。陶酔しきって絶唱していた。周りにいた知らない人たちも寄ってきてニタニタした表情で聞いていた。

翌年、入社してきた顔のつくりのはっきりしたややぽっちゃりした女性と、その先輩は付き合い始めた。「人形の家」よりも弘田三枝子が好きだったようだ。が、二人の付き合いは長く続かず、先輩はやがて会社を辞め、家業を継いだ。今も順調に経営されているようだ。

「人形の家」を聞くたびその先輩と新人歓迎ハイキングを思い出す。

顔も見たくない程

あなたに嫌われるなんて

とても信じられない

愛が消えたいまも

ほこりにまみれた 人形みたい

愛されて 捨てられて

忘れられた 部屋のかたすみ

私はあなたに 命をあずけた

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2007年12月15日 (土)

・「美しい十代」♪ 三田明 1963年

1963年。昭和3810月。三田明が「美しい十代」でデビューした。

戦後日本の青春歌謡を代表する1曲だ。

が、この年の6月に舟木一夫が「高校三年生」でデビューし大ヒットしている中での、三田の登場だったので、いかにも物まねで二番煎じのイメージが強かった。翌、1964年にデビューした西郷輝彦が橋幸夫、舟木一夫とともに御三家と呼ばれたことに比べ、三田明という歌手も、「美しい十代」もその功績の割には影が薄い。

サラリーマン世界にも同じことが起こる。

同じ部署に力を持った同世代が重なる。同じ分野に強い人が重なる。

一人はずば抜けて優秀、もう一人は普通に優秀。

普通に優秀な人は力量・実績の割りに評価が低い。凡人と同じにされてしまうこともある。

「高校三年生」を口ずさんでいると、いつの間にか「美しい十代」になっていることがある。「高校三年生」を聴くと「美しい十代」を聴きたくなる。

「高校三年生」の方が、曲のタイトル、歌詞、曲、歌手、歌唱力のすべてが少しずつ上なのだ。

はやり「高校三年生」だと思う。そして「美しい十代」が哀れでほっとけないのである。

「美しい十代」。なんと健全な青春なんだろう。いくら当時でも本当?と疑ってしまう。

白い野ばらを 捧げる僕に 

君の瞳が あかるく笑う

いつもこころに 二人の胸に

夢を飾ろう きれいな夢を

美しい十代 あゝ十代 

抱いて生きよう 幸福の花

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20071022日 「「高校三年生」♪舟木一夫 1963年」

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2007年12月 6日 (木)

・「なごり雪」♪イルカ 1975年

早春は別れの季節。それを東京発の汽車となごり雪で表現した名作。

1974年。かぐや姫がアルバム「三階建の詩」を発表した。リーダーの南こうせつは「メンバー全員に平等に印税が入るよう」にメンバーの伊勢正三や山田パンダにも作品を作らせたという。

この「三階建の詩」に伊勢正三作詞・作曲の歌が2曲収録されている。「なごり雪」と「22才の別れ」である。そういう目でみるとこの2曲は同じテーマで作られた2部作である。学生時代をともに過ごしたカップルが卒業を契機に別れる。

女性から描いたのが「22才の別れ」で歌ったのが男性デュオの「風」。

男性から描いたのが「なごり雪」で歌ったのが女性の「イルカ」。

1975年、イルカがシングルリリース。大ヒットした。私は大学2年生。卒業と共に別れれないといけない相手はいなかった。そのうち学生時代に彼女はできる、とまだ楽観していられた頃だ。

大学卒業とともに女性は東京から故郷へ戻る。二人に別れが。それを余計な説明もなく映画の一シーンのように表現している。

「22才の別れ」と併せて聞けばいいのだろう。見送る=別れる。その彼女はあなたの知らない人と結婚する。

引き止めたい。引き止めてほしい。

が、これから社会へでる男性にはこんなことは出来ない。ただなごり雪になごりの心を淡々と重ねるだけである。

汽車を待つ君の横で僕は

時計を気にしてる

季節はずれの雪が降ってる

東京で見る雪はこれが最後ねと

さみしそうに君はつぶやく

なごり雪も降るときを知り

ふざけすぎた季節のあとで

今春が来て君はきれいになった

去年より ずっと きれいになった

動き始めた汽車の窓に

顔をつけて

君は何か言おうとしている

君のくちびるがさようならと動くことが

こわくて下をむいてた

時がゆけば幼い君も

大人になると気づかないまま

今春が来て君はきれいになった

去年より ずっと きれいになった

君が去ったホームにのこり

落ちてはとける雪を見ていた

今春が来て君はきれいになった

去年より ずっと きれいになった

去年より ずっと きれいになった

去年より ずっと きれいになった

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20071129日 「「22才の別れ」♪風 1975年」

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2007年11月29日 (木)

・「22才の別れ」♪風 1975年

「22才の別れ」。私が20才の時に大ヒットした歌だ。

付き合っている女性などいなくて、とても切なく羨望の気持ちで聴いていた。

あなたに さようならって

言えるのは 今日だけ

明日になって またあなたの

暖い手に触れたら きっと

言えなくなってしまう そんな気がして

  そんなわけのわからんことと言わないで。

1974年。かぐや姫がアルバム「三階建の詩」を発表した。その中に、伊勢正三作詞・作曲の歌が2曲収録されている。「なごり雪」と「22才の別れ」である。

学生時代をともに過ごしたカップルが卒業を契機に別れる。女性から描いたのが「22才の別れ」。男性から描いたのが「なごり雪」。

当時シングル化の要請がファンから多く寄せられたようだが、解散が決まっていたかぐや姫のリーダー南こうせつは、解散後に伊勢正三が発表できるようこの話を断ったようだ。1975年、かぐや姫は解散。伊勢正三はフォークデュオ「風」を結成。そして「22才の別れ」をリリース。大ヒットした。

ローソク1本が1歳分の人生。

誕生日のローソクは正にそう言う意味だが

そんな当たり前のことが、

なんとせつなく、なんと悲しく、なんと甘く

上手く歌われていることだろう。

あなたに さようならって

言えるのは 今日だけ

明日になって またあなたの

暖い手に触れたら きっと

言えなくなってしまう そんな気がして

私には 鏡に映った

あなたの姿を 見つけられずに

私の目の前にあった

幸せにすがりついてしまった

私の誕生日に

22本のローソクをたて

ひとつひとつが みんな君の

人生だねって言って 

17本目からは

いっしょに火をつけたのが 昨日のことのように

今はただ5年の月日が

永すぎた春といえるだけです

あなたの知らないところへ

嫁いで行く私にとって

ひとつだけこんな私の

わがまま聞いてくれるなら

あなたは あなたのままで

変わらずにいて下さい

そのままで…………

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2007年10月22日 (月)

・「高校三年生」♪舟木一夫 1963年

東京オリンピックの前の年、昭和38年。私は小学校三年生。秋の遠足の時のことである。バスガイドが「皆さんは小学三年生ですが、高校三年生という歌を知っていますか。」と尋ねた。

「はーい。知ってまーす。」皆一斉に答える。

「先生。皆で歌っていいですか」とガイドは先生に敬意を示す。

いつも苦虫の先生もにゃっと笑ってOKのサイン。

皆が他の歌よりも大きな声でうたった「高校三年生」。

私は知らなかった。教育に悪い、と歌謡番組は見せてもらえなかったからだ。遠足の時、私は知らなかったが、母に文句を言って覚えた。

国民みんなが知っている流行歌・歌謡曲全盛時代の代表作だ。

昭和38年の紅白歌合戦の視聴率は81.4%(2006年は39.8%)で紅白史上最高の実績を上げた。

当時の我が家の玄関は北向きだった。家の前を東西に道が走っている。家を出て右、つまり東へ真直ぐ行くと高校に突き当たった。我が家から夕方にこの高校をみると、夕日を浴びてみえたのだ。

大人でも子供でもない高校生という存在はこの歌の効果もあって、小学生だった私には特別な感じがしたものだ。

今の高校生はフォークダンスを踊るのだろうか。胸をときめかせて。

大学進学率の低かった当時の高校三年生の多くは、就職を前にした世代だったのだろう。

       

赤い夕陽が 校舎をそめて

ニレの木陰に 弾む声

ああ 高校三年生 ぼくら

離れ離れに なろうとも

クラス仲間は いつまでも

泣いた日もある 怨(うら)んだことも

思い出すだろ なつかしく

ああ 高校三年生 ぼくら

フォークダンスの 手をとれば

甘く匂うよ 黒髪が

残り少ない 日数(ひかず)を胸に

夢がはばたく 遠い空

ああ 高校三年生 ぼくら

道はそれぞれ 別れても

越えて歌おう この歌を

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2007年9月21日 (金)

・「あの鐘を鳴らすのはあなた」♪和田アキ子 1972年、1991年

1972年、和田アキ子が「あの鐘を鳴らすのはあなた」でレコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞した。和田アキ子の絶唱が前面に出て好きな歌ではなかった。

それが…。

1991年。

深夜放送のCM。広告主はリクルート。動画ではなく写真が画面に映る。舞台は大学のキャンバス。友人と語リ合っている女性。一人物思いにふける男性。など。

BGMにあの和田アキ子の歌が流れる。でも随分雰囲気が異なる。音量を押さえたバラード風。

「あの鐘を鳴らすのはあなた(New Version)」だ。

リクルート社の「就職ジャーナル」のキャンペーンソングとしてリメイクされた。

就職を前に、希望と不安が入り混じった学生の表情を良く捉えた印象に残るCMだった。

そして、「あの鐘を鳴らすのはあなた(New Version)」も好きな歌になった。

「あの鐘を鳴らす」は「自分の夢をかなえる」という解釈はどうだろう。

「自分の夢をかなえる」のは「あなた」だ。

自分の夢をかなえるか否かは、「あなた」次第。

でも希望を持ってやっていけば、「鐘を鳴らす」ことができる。

50歳を過ぎた今。「あの鐘」は何だろう。

「希望の匂いがする」日々をまだ生きたい。

先月亡くなった阿久悠の作詞。

あなたに逢えてよかった

あなたには 希望の匂いがする

人はみな 悩みの中

あの鐘を 鳴らすのは あなた

あなたに逢えてよかった

愛しあう心が 戻って来る

やさしさや いたわりや ふれあう事を

信じたい心が 戻って来る

人はみな 孤独の中

あの鐘を 鳴らすのは あなた

人はみな 悩みの中

あの鐘を 鳴らすのは あなた

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2007811日 「追悼! 阿久悠」

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2007年8月25日 (土)

・「無縁坂」♪グレープ 1975年

「無縁坂」は、さだまさしが吉田政美と組んで活動していたフォークデュオ「グレープ」の「精霊流し」とならぶ代表作。

無縁坂は東京都台東区池之端にある。昔,坂の上に身元のわからない死者を葬ったといわれる無縁寺があったため無縁坂と呼ぶようになったとか。森鴎外の代表作「雁」の舞台にもなっている。

東に上野の森と不忍池。西に東京大学。舞台はそろっている。

「無縁坂」はさだまさしの作詞・作曲。1975年から76年にかけて放映されたテレビドラマ「ひまわりの詩」の主題歌。このドラマは、池内淳子が、<血のつながっていない子供をわが子のように育てる>シリーズのひとつで、「つくし誰の子」などとともに放映されたように記憶している。今は認知症になった母が熱心に見ていた。「ひまわりの詩」は私も見ていた。

池内淳子の他には、三浦友和、白川由美、池上季美子がでていたような気がする。30年以上前のことで不確かだが。

「無縁坂」がこのドラマにはまっていたという印象が今も残っている。

さだまさしは好き、とは言えないがこの詩は本当に良く出来ていると思う。

1.人生を、坂を登ることにたとえている。その名は無縁坂。

2.坂の下を振りかえって見てはいけないといっている。坂の下には不忍池。

この坂を歩いてみた。東京へ出てきて随分たつし、「無縁坂」が好きなのにもかかわらず初めてであった。ちょっと感傷的になった。

母がまだ若い頃 僕の手をひいて

この坂を登る度 いつもため息をついた

ため息つけばそれで済む

後ろだけは見ちゃだめと

運がいいとか 悪いとか

人は時々口にするけど

そうゆうことって確かにあると

あなたをみててそう思う

忍ぶ忍ばず 無縁坂

かみしめるような

ささやかな 僕の母の人生

母はすべてを暦に刻んで

流して来たんだろう

悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに

忍ぶ忍ばず 無縁坂

かみしめるような

ささやかな 僕の母の人生

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2007年7月29日 (日)

・「花嫁になる君に」♪ よしだたくろう 1971年

女性の友人。

学生時代の同級生2人

学生時代の後輩1人

就職後の同僚1人。

結婚に結びついても不思議ではなかった仲だったと思っている。幸か不幸か男女の関係には4人ともならなかった。そのおかげか後輩を除いて今も友人のままで、年1回は仲間で合って昔のように話ができる。

でも、彼女たちの結婚が決まったという話を聞かされた時は、やはり頭をガツンと叩かれたような感があった。そして胸のなかに「たくろう」のこの歌が流れた。

結論を出さないといけないことをなんとなく先延ばしにしているうちに、椿の花が落ちるように突然彼女が結婚をし、取り残されていく。

何事につけても執行猶予にしてしまう。私は若い頃も今も変わっていない。

「花嫁になる君に」。私の年なら嫁ぐ娘へ贈る歌のタイトルだが、そうではない。まだまだ青いままのおじさんである。

指がふれたら

ぽつんと落ちてしまった

椿の花みたいに

おそらく観念したんだネ

君はいつものように

電話に僕を呼び出し

僕を笑わせた後で

その宣言をしたのだった

お料理を習うのも

まんざら捨てたもんじゃないよ

君はこれからぼくに

気軽に電話をしなくなり

ぼくの退屈さをすくってくれる君は

いなくなったのだ

とつぜんとても確かになったのは

取り残されたのは僕だったと

いうことなんだ

※ 2月24日にこの「肩の力を抜いて」を立ち上げて約半年。これが100本目記