2009年6月27日 (土)

・めんこ(面子)とビー玉 で発揮された勝負弱さ

子供の頃の遊び。鬼ごっこ、かくれんぼといったオーソドックスで誰でもできる遊びよりいわばワンランク上位(?)の遊びに、男の子の場合、めんこ(面子)とビー玉があった。

勝負の結果、戦いに使用しためんこやビー玉の所有権が移転するので、子供の世界の博打場が展開し、大げさな表現をすると、弱肉強食の世界が展開された。

近所のごんた(腕白の関西弁)坊主たちが、めんこやビー玉をするのを遠巻きにみていると、「やらない奴はあっちへいけ」などと威嚇される。やりたい気持ちがますます高まってくる。母に泣きつき、粘りに粘ってやっとわずかな小遣いを貰う。ようやく手にしためんこ数枚やビー玉数個をしっかり握り締め、賭博場へ足を運ぶ。

男兄弟がいなかったこともありルールも分からないし、まして勝つコツもわからない。ものの数秒ですってんからんになってしまう。「持ってないやつは帰れ」とまた威嚇される。泣きながら家に帰ると母にこっぴどく怒られ、二度とめんこやビー玉は買うなとダメを押される。

よく授業料といわれるが、その授業料を払う余裕がない時はどのように対処すればいいのか、豊臣秀吉のような才覚はなく、結局ワンランク上の世界に行くことは出来なかった。つい腰が引けるのだ。子供と時の原体験。今も駆け引きに弱いのは、生まれ持ったものだとつくづく思う。

めんこは、比較的ルールが分かりやすかった。自分のめんこを地面に叩きつけて、その風圧で地面においてあった相手のめんこをひっくり返すと、そのめんこは獲得できるというもの。悪がきたちは、めんこを山のように持っていて(私には現金にすると途方もなく巨額になるだろうと羨望の目でみていた)、地面に置くめんこ(風圧に強い)と叩きつけるめんこをわけていた。アメフトのオフェンスチームとデフェンスチームの分業ができていた。あるいは細工があったかもしれない。

これに対してビー玉のルールは全くわからなかった。相手のビー玉に自分のビー玉を当てて、外へはじきだせば勝ち(カーリングのよう)だと思ってやっていると、今のはだめと言われる。オフサイドのようなものに引っかかっていたようだ。穴もあってビリヤードのようなルールも適用されて、とても素人さんには勝てる世界ではなかった。

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2009年5月 9日 (土)

・死語になった土曜日は「半ドン」

会社で若手に「半ドン」って知っているかと尋ねたところ、見事に「何ですか。それ。」との回答が戻ってきた。

私が就職した頃は、土曜日は特別な会社を除いてお休みではなかった。お休みではなかったが、仕事は午前中で終わった。半日だけの仕事。「半ドン」だった。

「半ドン」の語源にはいろいろあるようだが、オランダ語の休日「ドンタク」の半分というのが有力らしい。

土曜日は浮き浮きした気分だった。いつも昼食は交代で会社の食堂へ行くのだが、土曜日は全員で仕事を終わらせて、係り単位で外食をした。(食堂は休み)。週に一度のミニ宴会のようで楽しかった。普段とは違って、皆開放感で表情が柔らかだったし、女性と食事をともにできる機会でもあった。チャンスはものに出来なかったが。

皆が会社へ出てきているので、午後から独身の会とか有志の会で遊びに繰り出すことも簡単だった。おじさんたちは、会社の裏の雀荘に移動して何卓も囲んだものだった。

「半どん」の響きからくるあの開放感は格別だったが、今は週休二日でないととても持たない。高度成長の頃は元気で疲れなかったのか、私が若かったのか。日本も私も「半ドン」には戻れない。

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2008年8月 3日 (日)

・高校野球と「かちわり氷」と「渡辺ジュースの素」

今年も夏の風物詩、甲子園の高校野球が始まった。私は甲子園の地元の出身なので小学校3年生ごろから、夏休みになると往復の交通費と20~30円のお小遣いを母親から貰って、一人で甲子園へよく出かけた。外野席は入場無料(今もそのようだが)なので、外野席に陣取る。いつもセンターバックスリーン横のレフト側に座っていた。

お昼をどうしていたか記憶にないが、甲子園名物のカレーを食堂に行って、子供ひとりで食べた記憶がないのでおそらくおにぎりを母親が作ってくれたのだろう。作ってくれたおふくろには申し訳ないが記憶にない。

野球も楽しみだったが、一番の楽しみはもう一つの甲子園名物「かちわり氷」。

「かちわりいかがですかー」。と、売り子がスタンドを回ってくる。金魚袋のようなビニール袋にピックか何かで割った氷の塊がいくつか入っていた。このビニールにストローがついていて、溶けた氷水をすったり、頭にのせて冷やしたりしたものだった。昭和32年からの発売と記録にあるので、私は比較的初期のお客さんだったといことらしい。今は冷やしたペットボトルにその地位を譲っているとのことであるが、夏の高校野球には「かちわり氷」ということで根強い需要があるらしい。

この「かちわり氷」の袋に自宅から持参した、エノケンのCMが有名だった「渡辺ジュースの素」をかけて飲むのがさらに凝った楽しみ方であった。要は粉末ジュース。オレンジジュースだったと思う。この粉末ジュースは果汁100%という今日のジュースとは全く異なり、果汁は0%。主要成分は人工甘味料と合成着色料。この人工甘味料の主力であった「チクロ」に発がん性の疑いが指摘され、1969年(昭和44年)に使用禁止されたことや、健康食品への時の流れ、そして何よりも生活が豊かになったこともあり、粉末ジュースは世の中から消え、製造元の渡辺製菓も1972年(昭和47年)に営業譲渡してその名を消した。

あんなに熱心に見ていた高校野球も、私自身が高校生になったころから急速に熱がさめ始める。プロ野球もパリーグファンだし、甲子園にはアメフトで甲子園ボウルに行くぐらい(と言っても20年ぐらいは行っていないが)で、40年ほど野球を見に行っていない。

が、「渡辺ジュースの素」はなくなっても、グランドもスタンドも40年前と同じ夢を味わっているように思える

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2008年5月14日 (水)

・昔のこと 幼稚園の役員

娘たちは、自宅から少し離れているが、地元では有名な幼稚園に通っていた。園長は地元の名士で、大地主かつ市会議員。経営する幼稚園は手作りでアットホームな保育が売りであった。この幼稚園の年間の最大の行事が、クリスマス会と同時開催されるバザー。

このバザー周辺住民が当日列をつくることで有名で、お徳な品物が並ぶ。

そのお徳な品物は、母親たちが手作りしたり、駆け回って集めてきたりするのである。そのバザーを仕切るのがバザー委員。4月の新学期早々この恐怖のバザー委員が決められる。そして12月のバザーを目指して準備が始まるのである。

バザー委員は、代々伝わる作品or商品リストに、その年の目玉を加えた後、全ての母親に制作の分担を示す。当然不平・不満の声が出る。その声を抑えるためにバザー委員は、一般の母親の3倍の負担を自らに課す。

そこへ、ご機嫌を損ねない程度の進捗、品質確認。不器用な母親のサポート。不平不満のガス抜き。などの仕事が加わる。

ある年、妻にこのバザー委員がやってきた。妻が土日は制作に専念できるよう、私は二人の娘を連れて、遊びに出かけた。渋谷の児童会館は無料で終日遊べるし、定期券のルートだったのでよく利用した。

ある日一日過ごして、自宅に戻ると妻が「あなたたちお気楽でいいわね!」と子供にきつく言い放った。もちろん後ろにいる私へのあてつけである。そのころ、会社はバブルの真っ只中。平日は朝6時に起きて、6時半には自宅を出る。帰宅は、最低週3日は0時45分最寄り駅着の終電。

妻は機嫌が悪くなると、黙り込む。やがて子供に当たるのであった。

大変かも知れないが、そんなことは会社では当たり前のことという思いがあった。

家事・子育て。女性間の複雑な関係。そこまで理解するだけの余裕も私にはなかった。

妻はあれほど嫌がっていた当時の御母さん仲間と今も付き合っている。小学校以降の御母さんとの付合いは皆無なのに。一体何だったのだろう。夫婦の亀裂ができただけのバザー委員だった。

園長は、市会の議長になっている。

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2008年1月 4日 (金)

・年賀状が来なかった

小学校2年生の時のことである。

12月になったある日、自由帳といっていた、何に使ってもいいというメモノートのようなものを持って、「住所を書いて!」と教室をまわる奴が現れた。「なんだろう?」。家に帰って姉にそのことを話すと、「年賀状のためよ」と軽くあしらわれた。「なるほど!」。

翌日の教室では、自由帳まわしが加速する。でも私のところへは誰も来ない。なかなか自分からは動けない。来た!。やっと一人来た。「やった!」と内心一安心。スタンバイ中の私の自由帳を出してその子にも住所を書いてもらった。

やっと5人のクラスメイトの自由帳に私の住所を記入して、そして私の自由帳には5人分の住所が書き込まれて2学期が終わった。冬休みに入って丁寧に5枚の年賀状を書いた。心を躍らせてポストに投函した。

そしてお正月。待ちに待った年賀状が届く。私宛は2枚だけだった。

<関連記事>

20071210日 「「父の詫び状」向田邦子 <再読>」

http://yamaken38.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6a87.html

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2007年10月31日 (水)

・修学旅行のお土産 赤福餅

「伊勢の名ぶーつ。赤福餅はえじゃないか」の赤福餅、御福餅がいわゆる製造日・消費期限などの表示不正などの問題にさらされている。

関西出身の私の小学校の修学旅行は伊勢であった。伊勢神宮・二見が浦・真珠の養殖場などを見てまわった。古い旅館で枕投げもした。ちなみに関東出身の我が娘たちの修学旅行は日光であった。

当時は蒸気機関車だった。トンネルに入ると煙が車内にこないよう窓を閉めるように事前に先生から指示があった。私の席の連中は将棋を指しに他のボックスへ移動して、一人になっていた。窓の上げ下げは硬くて、子供一人ではなかなか大変であった、そこで日よけのカーテンを下げて対応しようとしたが、煙がどんどん入ってきて、先生が飛んできて閉めてくれた。当然怒られた。

もうひとつ時代を偲ばせる出来事。

ご近所のおばさんたちからおこずかいをもらったことだ。

当時はまだ、「修学旅行は一生の大行事」の名残りがあった。私の母も近所の子供が小学6年生になると、修学旅行のおこずかいを渡していた。

そして貰った子供は、赤福餅の一番小さい箱を買ってきて、帰ったその日に「行ってきました」と言って配って回ったものだった。

今のように(と言っても今は無期限販売停止中だが)、各地のキヨスクで買えなかった昔のことである。

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2007年10月23日 (火)

・ついに来た! 

「ついに来た!」。娘は突然起き上がり、きりりとした表情でそう叫び、洗面所へ向かった。

今は大学生の上の娘が幼稚園の年中の時のこと。15年以上前の出来事。

「お泊り学習」ということで、秩父への一泊のミニ旅行。親はついていかない。

緊張感と期待感が入り混じった、大きなイベントとして何日も前から意識していたのだろう。目覚めとともに「ついに来た!」と思わず叫んだ。

「ついに来た!」

これから、そんな思いの日を次々経験するだろう。楽しみの日も試練の日も。一所懸命いい準備をして、実りある「ついに来た!」をこれらからも多く経験してほしい、とその時私は願ったものだった。

大学生になった今、どうだろう。私には何も言ってくれないが、日々楽しそうである。

振り返ってみて自分自身である。何歳まで生きるかわからないが、人生も明らかに折り返して過ぎて、ゴールも見えてきた。

「あーあ。ついに来た!」という受身ではなく、あの時の上の娘のような「ついに来た!」を今後どれだけ味わうことができるだろうか。

時は流れる。

大切に目標を持って過ごそう。

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2007年9月20日 (木)

・割れたお皿

私が小学校2年生のことだ。45年ぐらい前の出来事。

その日の朝は、目覚めが悪かった。泣きながら朝食を食べていると、近所の同級生が誘いに来たので、やっとのことで学校へ向うこととなった。

だらだら歩いているうちに、その同級生の何かが気にいらなくて、手提げ袋を地面に叩きつけた。袋の中には小皿が入っていた。理科か図工かで使う教材を入れるものとして、持ってくるよう指示のあったものだった。

袋を地面に叩きつけ、皿が割れるのがわかった。もうどうでもいい!。泣き叫びながら家に戻った。

家の前では、私を送り出した後、そのまま近所の奥さんとの井戸端会議を続けている母がいた。「どうしたの?」。すぐに皿が割れたことに気づいた母は、「転んで割ったの? 泣くことはない。」と近所の奥さんの手前か、いつになく優しかった。

すぐに代わりのお皿を用意してくれた。「まだ間に合うから、はやく行きなさい」と送り出してくれた。

今も癇癪持ちはそのままである。事前に一所懸命準備をして期待が膨らんだにもかかわらず、その通りに事が進まない時、自分を妙に追い込んで行き詰る時、ある一定時点に達すると爆発してしまう。

さすがに年をとって押さえる術も身につけてきたが、通勤途上で爆発して警察沙汰にならないか心配である。

認知症になって、社会的な制約がなくなったら、また癇癪持ちが前面復活するのではないかと不安である。

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