2008年5月14日 (水)

・昔のこと 幼稚園の役員

娘たちは、自宅から少し離れているが、地元では有名な幼稚園に通っていた。園長は地元の名士で、大地主かつ市会議員。経営する幼稚園は手作りでアットホームな保育が売りであった。この幼稚園の年間の最大の行事が、クリスマス会と同時開催されるバザー。

このバザー周辺住民が当日列をつくることで有名で、お徳な品物が並ぶ。

そのお徳な品物は、母親たちが手作りしたり、駆け回って集めてきたりするのである。そのバザーを仕切るのがバザー委員。4月の新学期早々この恐怖のバザー委員が決められる。そして12月のバザーを目指して準備が始まるのである。

バザー委員は、代々伝わる作品or商品リストに、その年の目玉を加えた後、全ての母親に制作の分担を示す。当然不平・不満の声が出る。その声を抑えるためにバザー委員は、一般の母親の3倍の負担を自らに課す。

そこへ、ご機嫌を損ねない程度の進捗、品質確認。不器用な母親のサポート。不平不満のガス抜き。などの仕事が加わる。

ある年、妻にこのバザー委員がやってきた。妻が土日は制作に専念できるよう、私は二人の娘を連れて、遊びに出かけた。渋谷の児童会館は無料で終日遊べるし、定期券のルートだったのでよく利用した。

ある日一日過ごして、自宅に戻ると妻が「あなたたちお気楽でいいわね!」と子供にきつく言い放った。もちろん後ろにいる私へのあてつけである。そのころ、会社はバブルの真っ只中。平日は朝6時に起きて、6時半には自宅を出る。帰宅は、最低週3日は0時45分最寄り駅着の終電。

妻は機嫌が悪くなると、黙り込む。やがて子供に当たるのであった。

大変かも知れないが、そんなことは会社では当たり前のことという思いがあった。

家事・子育て。女性間の複雑な関係。そこまで理解するだけの余裕も私にはなかった。

妻はあれほど嫌がっていた当時の御母さん仲間と今も付き合っている。小学校以降の御母さんとの付合いは皆無なのに。一体何だったのだろう。夫婦の亀裂ができただけのバザー委員だった。

園長は、市会の議長になっている。

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2008年1月 4日 (金)

・年賀状が来なかった

小学校2年生の時のことである。

12月になったある日、自由帳といっていた、何に使ってもいいというメモノートのようなものを持って、「住所を書いて!」と教室をまわる奴が現れた。「なんだろう?」。家に帰って姉にそのことを話すと、「年賀状のためよ」と軽くあしらわれた。「なるほど!」。

翌日の教室では、自由帳まわしが加速する。でも私のところへは誰も来ない。なかなか自分からは動けない。来た!。やっと一人来た。「やった!」と内心一安心。スタンバイ中の私の自由帳を出してその子にも住所を書いてもらった。

やっと5人のクラスメイトの自由帳に私の住所を記入して、そして私の自由帳には5人分の住所が書き込まれて2学期が終わった。冬休みに入って丁寧に5枚の年賀状を書いた。心を躍らせてポストに投函した。

そしてお正月。待ちに待った年賀状が届く。私宛は2枚だけだった。

<関連記事>

20071210日 「「父の詫び状」向田邦子 <再読>」

http://yamaken38.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6a87.html

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2007年10月31日 (水)

・修学旅行のお土産 赤福餅

「伊勢の名ぶーつ。赤福餅はえじゃないか」の赤福餅、御福餅がいわゆる製造日・消費期限などの表示不正などの問題にさらされている。

関西出身の私の小学校の修学旅行は伊勢であった。伊勢神宮・二見が浦・真珠の養殖場などを見てまわった。古い旅館で枕投げもした。ちなみに関東出身の我が娘たちの修学旅行は日光であった。

当時は蒸気機関車だった。トンネルに入ると煙が車内にこないよう窓を閉めるように事前に先生から指示があった。私の席の連中は将棋を指しに他のボックスへ移動して、一人になっていた。窓の上げ下げは硬くて、子供一人ではなかなか大変であった、そこで日よけのカーテンを下げて対応しようとしたが、煙がどんどん入ってきて、先生が飛んできて閉めてくれた。当然怒られた。

もうひとつ時代を偲ばせる出来事。

ご近所のおばさんたちからおこずかいをもらったことだ。

当時はまだ、「修学旅行は一生の大行事」の名残りがあった。私の母も近所の子供が小学6年生になると、修学旅行のおこずかいを渡していた。

そして貰った子供は、赤福餅の一番小さい箱を買ってきて、帰ったその日に「行ってきました」と言って配って回ったものだった。

今のように(と言っても今は無期限販売停止中だが)、各地のキヨスクで買えなかった昔のことである。

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2007年10月23日 (火)

・ついに来た! 

「ついに来た!」。娘は突然起き上がり、きりりとした表情でそう叫び、洗面所へ向かった。

今は大学生の上の娘が幼稚園の年中の時のこと。15年以上前の出来事。

「お泊り学習」ということで、秩父への一泊のミニ旅行。親はついていかない。

緊張感と期待感が入り混じった、大きなイベントとして何日も前から意識していたのだろう。目覚めとともに「ついに来た!」と思わず叫んだ。

「ついに来た!」

これから、そんな思いの日を次々経験するだろう。楽しみの日も試練の日も。一所懸命いい準備をして、実りある「ついに来た!」をこれらからも多く経験してほしい、とその時私は願ったものだった。

大学生になった今、どうだろう。私には何も言ってくれないが、日々楽しそうである。

振り返ってみて自分自身である。何歳まで生きるかわからないが、人生も明らかに折り返して過ぎて、ゴールも見えてきた。

「あーあ。ついに来た!」という受身ではなく、あの時の上の娘のような「ついに来た!」を今後どれだけ味わうことができるだろうか。

時は流れる。

大切に目標を持って過ごそう。

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2007年9月20日 (木)

・割れたお皿

私が小学校2年生のことだ。45年ぐらい前の出来事。

その日の朝は、目覚めが悪かった。泣きながら朝食を食べていると、近所の同級生が誘いに来たので、やっとのことで学校へ向うこととなった。

だらだら歩いているうちに、その同級生の何かが気にいらなくて、手提げ袋を地面に叩きつけた。袋の中には小皿が入っていた。理科か図工かで使う教材を入れるものとして、持ってくるよう指示のあったものだった。

袋を地面に叩きつけ、皿が割れるのがわかった。もうどうでもいい!。泣き叫びながら家に戻った。

家の前では、私を送り出した後、そのまま近所の奥さんとの井戸端会議を続けている母がいた。「どうしたの?」。すぐに皿が割れたことに気づいた母は、「転んで割ったの? 泣くことはない。」と近所の奥さんの手前か、いつになく優しかった。

すぐに代わりのお皿を用意してくれた。「まだ間に合うから、はやく行きなさい」と送り出してくれた。

今も癇癪持ちはそのままである。事前に一所懸命準備をして期待が膨らんだにもかかわらず、その通りに事が進まない時、自分を妙に追い込んで行き詰る時、ある一定時点に達すると爆発してしまう。

さすがに年をとって押さえる術も身につけてきたが、通勤途上で爆発して警察沙汰にならないか心配である。

認知症になって、社会的な制約がなくなったら、また癇癪持ちが前面復活するのではないかと不安である。

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